おじさんのネタ話

おもろい話をかいてみようかなっと

四州四国はお城の宝庫
お大師様と同行二人
へんなおじさん遍路中
つるつるっと、うどんを食し
鳴門のうずで大きく揉まれ、
三大河川の吉野を渡り
同じあほならおどりゃなそんそん
忘れちゃいけないお馬さん
はりまや橋の待ち合わせ
はちきんお嬢と乱舞して、
たどり着いたよ坊ちゃん湯
恋の病を湯に流し
松山城は15万石。

手続と研修


“モナリザの微笑” のように


雨がしとしと水曜日。


僕は一人で入社の説明聞いていた


デスクに置かれた契約書


なぜか担当者


素敵な笑顔を浮かべてる


そんな感じで2時間、社是から始まり


エコアクションまで


まるで、水を得た魚のように


すいすいと泳ぎ切りましたとさ。


後は、健康診断を残すのみ


しっかりとミッションに取り組んで参ろうぞ


応援団は恵比寿さんと大黒天さん


よろしく頼んます


じゃあ、また。

神棚の不思議


神棚に潜む七不思議


我が家にお越しいただいた大切な神様(神棚)は


かれこれ10年目になります。 


そして、今から書くことは


我が家の神棚の不思議なお話です。


左右にある榊は毎月、月末に新しいものに変えています。


以前は月に2度、15日と月末に変えていたのですが


榊がとても元気があるので、月に1度に変更しました。


中央には伊勢神宮の御札(天照大御神)をお祀りし


左側には今までお参りした崇敬(お気に入り)の神社の御札を


右側には地元の氏神様(八坂皇大神)の御札をお祀りしています。


そうして毎朝、榊の水を変え、水・米・塩を新しく変えて


二拝二拍手一拝をして


自分の思うところの約束事(決意表明)


世界の情勢の改善(戦争の終結、緊張状態の緩和)


家族・親族の健康長寿、目標達成等のお願い事をしています。


かっこつけているわけじゃないのですが、長年のお祈りやお願い


が本当にスムーズに進むことも多く、信じられないような事も


結果としておきてきたわけです。


そのひとつとして、神棚の右側の榊が神棚を飾って少したって


よく枯葉になって落ちることがあるなと思って調べてみると


神様がお越しになっている証拠とか、ほんとですかなんて思い


ありがたいことだなと感謝しました。


又、大変ビックリするようなこともありました。


左側の榊がある日、朝の定例としての水替えをしようと


持ち上げた瞬間、ほぼすべての葉が枯れ落ちて大変ビックリしま


した。それまで一度もなかったこと、ましてや昨日まで生き生き


としていた榊が突然の事態に本当にあわててしまいました。


やはりその日にとんでもない事態が発生しました。


神様は事前に教えてくれていたと後になってわかりました。


調べてみると大きなトラブルが発生したり、良くないことの


前兆という風に書いてありました。


起きたことは仕方がないので、自分のできることをしてなんとか


今日に至ります。


本当に不思議なことがいろいろとありますが、神棚に神様が


来られているからこそ、教えて頂けること、学べることがある


と本心から思うようになりました。


いやー、世の中は不思議にあふれていますが、神棚をお迎え


したからこそ学べるものがあります。


今日の話はここまでですが、なんか不思議でしょ。


じゃあまた。

善根宿 巡礼さんのお宿


        


四国霊場八十八ヶ所巡礼の旅


弘法大師信仰の出発点は東寺、京都にある真言宗の総本山。


桓武天皇による平安京遷都の二年後、七九六年に都の南端に


官寺として創設されました。


その後、八二三年、嵯峨天皇からお大師様に下賜され、密教の


根本道場となりました。


一九九四年(平成六年)ユネスコの世界遺産に登録されました。


密教美術の宝庫としても知られています。


御影堂はお大師様が実際にお住まいになられていたお堂です。


お大師様が真言宗を開かれたお寺それが東寺。


お大師様とともに旅立つ 同行二人


お四国巡礼 四国八十八ヶ所巡礼


発心 修行 菩提 涅槃 同行二人 の遍路修行


阿波霊山寺~土佐~伊予~讃岐大窪寺迄


私が四国遍路を始めたきっかけはかれこれ30年ほど前に


転勤で徳島で仕事を任されてた時、業務がなかなかうまく進展せ


ず、毎日悩んで偏頭痛に悩まされていたころです。


日曜の朝起きて、テレビを見ると、とある俳優さんが癌を患って


四国遍路に来ていますと、実況の番組がそこに映し出されていま


した。それを観ているうちに、そうだここ徳島は四国霊場八十八


所、発心の地じゃあないか。


よーし、自分のもやもやした気持ちを復帰って、決めたことを


想いのまま実践していくように、一番札所霊山寺から九番札所法


輪寺まで、実行すると決心したことを、お大師さまに約束するよ


うに決意表明を行っていきました。


すると九番札所をお参りしたころには、あれだけ偏頭痛に悩まさ


れていたにもかかわらず、一切頭痛は感じなくなりました。


それから、業務に対しても、決心したことを実行していくように


努めていくと、業務は好転し、それ以来偏頭痛に悩まされること


なくなりました。それがお四国巡礼へのきっかけでした。


それからおおよそ30年、いまだ巡礼は半分ほど、想いとはずいぶ


かけ離れ悲しい限りとなっています。


定年となり、やっと四国に帰ってきて今はすこしづつ時間を取っ


て巡礼を続けているところです。


閑話休題(それはさておき)、私の叔父が六十四番札所と六十五番



札所の間でお遍路さんの為に 巡礼さんのお宿 をしてい



ます。タイトルに書いてあるとおりの 善根宿 です。


善根宿を始められたきっかけは、叔父の兄(母の弟)が生まれたこ


ろから目調子が悪母親(私の祖母)がお遍路さんに巡礼の旅に


一緒に連て行ってもらえないと頼んだそうです。


いくばかりかのお金とお米をお渡しして巡礼に連れて行ってもら


たそうです。まだその兄という子は10歳になったばかりのまだ


まだ本当の子供だったそうです。


その兄(叔父)という子供も目が悪いにもかかわらず、良く巡礼に


ついていったもんだと心から感心してしまいます。


そうして1年ほどの間、なんの連絡もないまま、ある日突然ぼろ


ぼろの姿格好で叔父の兄はうちに帰ってきたそうです。


母も家族一同みんな、びっくりしたというよりも嬉しくて嬉しく


て、ほとんど見えなかった眼はなんと生活できる位回復して


帰ってきたそうです。


お大師様のおかげ、巡礼さんのおかげ、そして何より小さい子の


本人の努力のおかげが奇跡をおこしたと感じたそうです。


そんな経緯もあって、私の亡き母もそして、叔父もみんな、


お大師様をはじめ、四国巡礼のお遍路さんにはずっと感心


寄せていました。


巡礼の大変さを知る叔父は、今現在、巡礼さんのお宿を開いてい


ます。お遍路さんへ無料で開放しています。


 私の街でも、杖を持った巡礼さんを見るたびにご苦労様です、


声をかけたくなります。


私達もできることは協力しようといろいろと話し合っています。


今では、間接的なお接待もありかなと思っているところです。


お茶のセットとかカップめんのセットとか甘いもののセットとか


巡礼さんが少しでも喜んでいただけるものを携えて、


かみさんと叔父の家に行くことが楽しみの一つになっています。


残念ながら、叔父の家の番犬メリーは人なれせず、いつ行っても


死に物狂いで吠えてきます。


こっちも死ぬ気で近寄って頭をなでるとウーッと震えながら


なんとか我慢して頭をなでさせてもらってる状況です。


いつかきっと、尻尾を振らせてやるぞと思いつつも、残念な結果


まあ、少しづつ慣れてくれるのを待つようにしています。


今日は、ぐちではなく我が家の少しの楽しみを書いてみました。


じぁあ、また。


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俺はおしんか・・・なんてね


 昨日から世間でいうところのゴールデンウィークですな


シルバーシニアである私には一昨年からは日常生活


アルバイトもなく、どうしようかなっと次なる職場をぼーっと浮


かべて思案中、かみさんは仕事へご出金(出勤)されました。


雨の日は私が送迎担当として社長出勤の待遇です。


さてと、のんびりと溜めこんでいるテレビ番組を精査しながら  


聴しているところ、まずはNHKの 新プロジェクト 


黒四ダをビデオで見ました。


あの昭和30年代、日本が戦後復興に向け全力であらゆるものに取


り組んでいた時代、そして私が生まれた年代。


戦後の強い日本の出発点ともいえる頃、私は出発したんですな


私が35歳の頃、家族4人で黒四ダムを見に行った記憶がよみがえ


ります。マイカーで夜通し走らせて、黒部のふもとに到着し


バスに乗りケーブルカーにのりトロッコに乗り?


まあダムにたどり着くまでの道中が非常に感動的だったのを思い


出します。それから、トンネルを抜けるとそこには壮大な雪の壁


(5メートル位はあったのかな)に一層感動した記憶が浮かびます。


そうそう、家族四人で旅行に行ったのはそれこそゴールデンウィ


ークでした。娘二人とかみさんはそれほど感動しているようには


見えず、私一人がはしゃいでいたようなそんな気がしています。


当時の子供たちに歴史の遺産を見せても、その頃はふーんって感


じで興味の欠片もなかったような記憶が思い出されます。


 娘たちは、神戸に行くよ、横浜に行くよ、所謂、都会に行くよ


ていうときは目を輝かせて、早く早くと出発を急がせていたも


のです。まあ、子供なんてそんなもんですよね。


その頃の自分は仕事の上で、やっと責任者についたころ、ハード


でタイトな時間だったからこそ、時間がとれる日には、歴史もの


や心に残るものを、子供たちを連れて見に行ったものでした。


さあ二作目は大好物の寅さんを見ることにします。


何度も見ているにもかかわらず、それでもやっぱり見ちゃいます


寅さんといえば。・・・中学生の頃、正月映画として友達とよく


見に行ったものでした。昔から大好物だったんですな。 


他にも、猿の惑星(ラストの場面でほんとびっくりしたなあ)   


小さな恋のメロデー(あこがれたなあ)、007(ボンドカーがたの


しみだったなあ、ボンドガールはまだ未開発ゾーンでした)


トラトラトラ(パールハーバーを壊滅してすかっとしたなあ)  


キャディのバイトで稼いでよく見に行ったものです。


今はほとんどがユーチューブ、時代は変わっていくものですな。


我々の年代は昭和を引きづりながら螺旋階段を一歩づつ死刑台に


上ってゆそんな感じかもしれませんな(スゲー怖いぞ)。


そういえば小学6年生のころからアルバイトをしてました。


6年生でゴルフ場でキャディのバイト、1バック200円くらいだっ


たかな、今じゃそんな話は誰も信じてはくれませんが、昭和の40


年代では私の田舎ではあったんですな。


子供心にゴルフをしている大人がいけすかん奴らだなと感じてい


ました。今でいう薬品メーカーのMR(医薬情報担当者)がへこへ


こと医者におべっかを使いながら、キャディの我々に命令口調で


ロストボールを拾いに行ってこい、そんな時はわざと古くて裂け


たロストボールを渡した記憶もあります。


すごく怒っていながらも医者の前で猫なで声でまあそんなことも


ありますよね、なんて、あるわけないだろバカって笑ってました


毎週日曜日、朝5時頃から自転車で山のふもとのゴルフ場へ


受付で到着順に名前を書いて、バイトの順番を待ったもんです、


うまくいけば2ラウンド回って、倍のバイト代を稼げるのです。


バイト代をためて、その頃流行の切手や古銭を買ったり、


ずっと欲しかった顕微鏡や、お手軽カメラ等いろいろと宝物


を買ったもんです。まだまだ参考書なんて買うわきゃない。


一番の使用は母親へ渡して貯金していたものですから、母親が家


計の足し(パチンコ)に全部使っていることもありました。


悲しい1頁もあったような、それでも中学、高校2年1学期までと


よくアルバイトをしたもんです。


私の叔母が今でも、正月に会うたびにいっつもバイトしてたねと


昔のことを思い出させてくれます。


高校2年の夏休みに子供のころからの友人と二人で、市民プール


へ行ってて、将来のことをなにげに話し合ってた時、友人が大学


進学の話をはじめて、自分が心の中で蓋をしていた大学進学とい


本当の夢に気づきその日から、死に物狂いで進学のための


勉強を始めたんですな、参考書を買うお金もなくて、兄が叔父か


ら貰っていた英文解釈の12年も前の参考書を何十回と繰り返し


て覚えたりエコ受験だった日々が懐かしい青春の1頁ですな。


当然大学へ行ってからも、バイト尽くし、そんな人生を語りなが


ら年金者になった今もバイトにいそしんでいるなんて・・


そうすると12歳のころから働いていたような、俺はおしんか・・


おしんさんに申し訳ないですな、私のようなものと比べて


まあいろいろと描いてみましたが、バラ色の人生じゃないですな


どうみても、しがないへんなおじさんですな。


ちなみに社会人となり、バブル時代のサラリーマンだったので


ゴルフもたしなんでいました、キャディの経験も有り、マナーは


しっかりと把握していて、キャディーさんに休憩時には夏は冷た


いお茶、寒い時は温かい飲み物かチョコレートをプレゼント。


マナーも知らない輩を見ると本当に悲しくなっていましたな。


まあ、暇人の昭和の記憶物語の1頁でした。



じゃあ又ですな。


そうそう、六年生の時材木の皮むきなんぞもしましたな(笑)・・


まだいうか、・・・


就職が決まったと思ったら・・・

 


このたび、3月中に履歴書を送って、面接を受けて内定を頂いて、


今現在のアルバイト先に5月上旬に退職させて頂くよう話をつけて、


もう一社履歴書を郵送し書類審査合格し、面接日も確定していたところへ


お断りの連絡を入れて、さあっと、思っていたところ


 内定先の企業から決まっていた職場の退職予定のものが家庭の都合で


どうしてもやめられないとのことで、現内定先はなく、別の求人先へ


変更していただけないかととんでもない、連絡が来ました。


 関係先のすべてへの根回しも終わったところ。いわゆる予想外の大問題。


別の職場の修行(就業)開始時間が朝8時からということ、現内定先は午後1時から


6時まで、残業が1時間ほど毎日とのことだったのであるが、朝に弱い自分なので


午後1時開始が最大の利点として応募していたのに、


 ローカル企業といわれるだけあって生まれてこの方、こんなえぐい仕打ちは


初めての体験。皆さんならどうしますか、対処の方法を教えて頂けませんか?


ちなみに現在67歳、シニア驀進中です。


内定先求人内容は貸事務所のビル管理人、そして変更先の求人内容は街中の


マンション管理人。どう思いますか教えて頂ければとてもうれしいのですか。


じゃあ、また。